裏山にある、いつもの豊かさ
先日、実家の裏山にわさびを見に行きました。


裏山には、わさびのほかにも蕗やミズ、ワラビなどが生えています。



けれど、その日は何も収穫しませんでした。
いつも生えているので、食べたいときに食べたい分だけ採ればいいからです。
母が「ウルイ持って帰って〜」と言い、私が「は〜い」と返事をしたものの、 帰るころには二人ともすっかり忘れてしまい、結局ウルイは持ち帰りませんでした。
こんなふうに、母も私も食べ物に執着することがあまりありません。
食べ物に困らなかったという環境
生まれてから、食べ物に困ったことがありませんでした。
実家には田んぼがあったのでお米を買ったことがなく、 お菓子やフルーツも、いつの間にか家にたくさん置いてあり、 「なくなる」という感覚を持ったことがなかったのです。
実家を離れてからも、それは変わりませんでした。
なぜか家には頂き物のお菓子や食べ物がいつもあり、 ありがたいことにお米もいただけるので、食べ物に困らない生活が続いています。
「なくならない」という感覚が育てた思考
なくならない
焦らなくていい
採りに行けばある
無理に確保しなくていい
食べてもまだある
つまり、 「必要な時に必要な分だけ、そこにある」 という世界で育ってきたのです。
これは自慢ではなく、 努力でも運でもなく、 育った環境によってはぐくまれた“思考の型”があるのではないか と気づいた、という話です。
お金にも同じ“思考の型”があるのかもしれない
もしかすると、お金に困らない人も同じなのかもしれません。
必要な時に必要な分だけ使う
無理に稼ごうとしない
節約しなくても減らない
「今すぐ確保しなきゃ」という焦りがない
なくなってもまた入ってくると知っている
つまり、 「必要な時に必要な分だけ、そこにある」 という世界で育っている。
育った環境がつくる“欠乏感のなさ”
だから、お金持ちの子が独立してもお金持ちになりやすいのは、
努力や運だけではなく、 育った環境がつくる“欠乏感のなさ”が関係しているのではないか。
もしかして、お金持ちじゃないから欠乏感があるのではなく、欠乏感があるからお金持ちになれないのかもしれない。
そんなふうに思ったのです。



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